廃止された秩父鉄道羽生No.11踏切についての考察

2020年7月15日に廃止された秩父鉄道羽生No.11踏切について考察してみたいと思います。

羽生No.11踏切の概要

秩父鉄道羽生No.11踏切は、西羽生駅を熊谷方面に向かって、2番目にあった踏切です。
秩父鉄道の場合、起点側の駅から順番に駅名の後に番号が付く形になっていますので、本当は「西羽生No.2」踏切になるところですが、1981年(昭和56年)9月1日と比較的新しく開業したためか、そのまま”羽生から”の番号になっています。

位置図(埼玉県羽生市桑崎地内)

地理院地図(黄色の丸は当会追記)

羽生市内における秩父鉄道の踏切は下記の通りです。
「4種踏切」とは、警報機も遮断機も無い踏切です。羽生市内の秩父鉄道には現時点でまだ4か所ありますね。但し、最近の改良で自動音声で注意を促す装置が取り付けられています。(そちらはまた別な記事でお知らせする予定です)

元々27か所あった踏切が、19か所まで減っているがのこの資料でわかります。昭和36年に制定され「踏切道改良促進法」により、全国の踏切の数は半減(約7万→約3万)しています。

撤去される前の様子

北に向かって(2020年6月21日当会撮影)
南に向かって(2020年6月21日当会撮影)

撤去時の様子

動画にしてみました。

撤去は7月15日当日の午前中には終了し、直後は簡易なバリケード、その後赤白のバリケードが設置(撮影日は8月20日)されました。

廃止に至る経緯(埼玉県改良協議会合同会議)

さて、この踏切の撤去は、昭和36年に制定された、踏切道改良促進法(昭和36年法律第195号)に基づき開催されている踏切道改良協議会合同会議の一つである、「埼玉県改良協議会合同会議」の令和4年度第1回(2023年2月17日)で、「第4種踏切道の統廃合事例」として資料に記載されています。以下がその抜粋です。

No.11踏切の交通量は「歩行者4人/日」となっていたんですね・・・
(”B規制”との記載がありますが、これは「二輪自動者、農耕用車両又は軽自動車以外の自動車の通行禁止」というもののようです)

この踏切はどうして存在していたのだろうか

前述のように「歩行者4人/日」となると利用者も少ないので廃止も仕方がなかったかもしれませんね。ちなみにアップした動画の2:50くらいにちょっと小さくてわかりにくいですが、踏切を渡る歩行者(たぶん犬の散歩)が写っています。
しかしながら、ここに踏切が設置されていたのは最初から利用者が少なかったわけではないだろう、と思いますしこの踏切の名誉のためにも(笑)ここを通る道がどんな道であったかを調べてみましょう。

羽生市立図書館に「埼玉県東部地区の交通」(東部地区文化財担当者会2015/11)という、非常にありがたい資料があります。図書館の資料としては禁帯出なのですが、実は宮代町のHPで、その一部が図表としてアップされていて、これまたありがたいことにPCで確認することができます。
下記はその「埼玉県東部地区の交通」における羽生市のページにある図です。
ここにはかつて利根川にあった河岸が記載されています。赤丸を付けた「長宮」と「別所」が蒸気船・通運丸の寄港地でした。

埼玉県東部地区の交通図表より
(長宮河岸の赤丸、No.11踏切の位置を示す矢印の先の赤丸は当会追記)

関連する歴史的な流れは下記の通りです。

  • 明治13年(1880年)7月 蒸気船”通運丸”が利根川上流部までの航路を開拓
  • 明治36年(1903年)4月 東武伊勢崎線の旧川俣駅までが開通
  • 大正 8年(1919年)   通運丸撤退
  • 大正10年(1921年)3月 北武鉄道(現在の秩父鉄道)羽生駅~行田駅(現在の行田市駅)開業

下記は明治43年(1910年)に発行された「利根川汽船航路案内」という本で、国会図書館デジタルコレクションで見ることができます。
その本の中に「配達区域表」というものがあり、長宮河岸から物資が配達される区域が記載されています。

汽船荷客取扱人聯合会 編『利根川汽船航路案内』,汽船荷客取扱人聯合会,明43.4. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/805492

見てわかるとおり、長宮取扱所ではかなり広範囲に羽生市内を対応していたことがわかります。(この表で確認できる「川俣取扱所」は群馬県側です。)
注目したいのは「岩瀬村大字(桑崎、上岩瀬、中岩瀬、下岩瀬、小松)」の記載です。
長宮河岸から桑崎や岩瀬方面を結ぶ道はどうだったのだろうかと、秩父鉄道が開通するもっと前の明治17年の地図で見てみると下図のようになります。
上の右側の黄色い丸は長宮河岸、左側は旧川俣駅のあった位置、赤い丸が踏切の位置
左下の大きな黄色い丸は、桑崎村、上岩瀬村、そして当時から岩瀬地区の中心的施設であったと思われる「岩松寺」を含んだ区域で、太いマーカーでざっとその動線を示してみました。

地理院地図センターで購入した「1884_羽生町_jk207」と「1884_館林_jk206」をつなぎ合わせたものに当会で追記したもの。(これに限らず他の画像も複製を禁じます)

桑崎村の文字の下あたりにクランクする感じの場所がありますね。実はこの辺りに大正9年に設置された道標が存在します。(フカダソフトさんのHPにある「道標 北埼玉郡、他」を参照していただければと思います)
この道標については、別の機会に考察したいと思いますが、そこには「岩瀬村役場」「農業組合」への距離が書かれていて、上記図のルートと大きな関わりがあると思われるのです。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: .png

明治の地図を購入した時につけていただいた、
「2万分1迅速測図記号表」には実線が「騎小径」、破線が「徒小径」となっています。ネットで調べると、
騎小径は「馬で通れる道」
徒小径は「歩かなければならない道」
「今に伝わるむかしみち」平成21年(2009)より)
となるようです。

明治17年の地図を見ると、羽生No.11踏切を挟んだ道路(現在の羽生市道2051号線及び5003号線)は「騎小径」つまり馬が通れる道、もっというと比較的幅員が広いと考えられる道だったようです。

No.11踏切の北側にあった水路の橋。ここだけ広くなっていますが、この幅員こそが”騎小径”であった道の名残なのかもしれませんね。(当会撮影)
参考に明治17年の地図に、青色で昭和32年の地図(購入した「1956_加須_75-8-3-1」と「1957_館林_75-7-4-1」をつなげてたもの)を重ねてみました。(複製を禁じます)
2万分の1と2.5万分の1の地図なので合わせるのが非常に困難ですが、時代の移り代わりと共に、道路が改良されてゆくのがわかります。

羽生市のHP(羽生市が管理する道路について)にある道路網図(令和5年度)にも位置を示してみました。

こちらにも参考でマーカーで示してみました。国道122号バイパスに分断されたりしていますが、しっかり公道がつながっていますね。

まとめとして

今回は廃止された秩父鉄道No.11踏切を巡って、その踏切が設置・廃止された背景をざっと考察してみたのですが、徒歩などが移動の中心だった時代などは特にですが、長宮河岸という重要な交通・物流拠点と岩瀬地区方面を結ぶ主要なルートだったのではないか、と当会は考えております。

結果的には交通量が少なくて廃止された踏切道も、歴史的には決して意味の無いものではなく、ある時代にはとても重要な位置にあったとの印象を強く持つ機会となりました。
今後は前述の桑崎にある道標とそこに刻まれた施設への距離に関する検証や、もっと詳細な各時代の交通状況の推移との関係、更に範囲を広げた交通ネットワークの検証も含めた考察もしてみたいと思っています。

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