前にも書いたように「大利根砂利線」という路線名は東武鉄道百年史のみに掲載され、それ以前には東武鉄道の歴史に登場してこなかったようですが、ではなぜ百年史にのみ掲載されたのか、そしてなぜこの路線名なのか。
この東武百年史も1998年(平成10年)に発行されて現時点(2026年)では既に四半世紀以上たってしまいました。先日(2026年1月)「東武鉄道お客様センター」に大利根砂利線の名前の由来等を問い合わせたところ、「弊社100年史以外に確認できる資料がございませんでした。」との回答をもらっていますので、それを前提として現時点において当会で調べられる、あるいは考えられる範囲で“自論として”推察してみる、という姿勢で論じたいと思いますのでご了承ください。
東武鉄道の営業路線(貨物線、貨物専用線)なのか、企業の専用鉄道(専用線、専用側線)なのか
東武鉄道百年史に書かれている以上、大利根砂利線は東武鉄道自身が敷設した貨物専用の路線だと言えるでしょう。しかしその実態は、「大利根砂利線の起点を推測する」において考察した通り、専用線一覧表に記載された距離を元に検証すると、それが間違いなく大利根砂利線と考えられる路線の全線にわたるものであると判断できるので、「東武鉄道の路線=企業の専用線」という不思議な路線になってしまいます。(ちなみに東武鉄道の貨物専用線としては、「東武和泉砂利線」「徳川河岸線」「仙石河岸線」など、かつては多数存在していました)
元々利根川橋梁が建設される前に“仮の駅”として利根川の埼玉側(利根川南岸=利根川右岸※河川においては上流から下流に向かって見た時の左右で“左岸”“右岸”となります)に旧川俣駅が設置された際、現在の本線の西側に沿う形で“仮の本線”が敷設されたことになりますが、当時はあくまでもこれが本線だった、ということになります。
その線路をそのまま貨物線に転用することによって、“大利根砂利線”が成立することになったのは間違いないと思われます。
「専用線事務提要」(1954年 貨物事務研究会 編 交通日本社)にはこう書かれています。(あくまでも国鉄としてですが、東武鉄道などの私鉄も準じていたものと思われます)「専用側線は、(中略)請願者が設備費を負担して造るのが原則であり、専用側線の大半がこれに属するものである。然し、特殊なものとして国有鉄道が自己の使用に供するために敷設した側線、例えば、国鉄が線路の道床に使用する砂利や砕石を採取する目的で敷設した砂利線、砕石線、工事上の必要から敷設した材料置場線、工場線等の国鉄の既設側線いわゆる非営業側線や構内の営業側線を、そのまま特定の貸主に使用させる場合があるが、これらも専用側線として取扱われることになっている」
上記の事から「営業路線とも言えるし、専用線(専用側線)とも言える」このことが実は東武鉄道自身でさえ、最終的にどう扱うかがあいまいだった原因になってしまっていたのではないでしょうか。
そこを前提に考察をしていきたいと思います。
鉄道ファン2004年7月号に掲載された「大利根砂利線」
鉄道ファン2004年7月号に掲載された「東武鉄道 貨物列車ものがたり(3)/花上嘉成」のP185の「東武鉄道路線図(現有路線と主要貨物専用線)」には羽生駅から分かれた「大利根砂利線」が描かれています。
東武鉄道百年史が1998年に発行された後なので、百年史と整合する形になっています。
ところが示されている線種が凡例によると「主要貨物専用線および専用鉄道(全廃)」という括りなので、ここでも貨物専用の東武鉄道の営業路線なのか、あるいは企業の専用側線なのかの判別はできないのです。

鉄道ファン2004年6月号 東武鉄道 貨物列車ものがたり(2)
鉄道ファン2004年7月号 東武鉄道 貨物列車ものがたり(3)全て花上嘉成氏

では、どうして「大利根砂利線」という名称になったのか、可能性がある2つ(営業路線、専用側線)の側面から考察してみたいと思います。
地域としての「大利根」
大利根砂利線が営業路線だとした場合、そこに専用線のように企業名を冠するのはまずありえない、と考えますよね。「砂利線」は一般名称であるので、では「大利根」とは?と考えると思い出されるのが周辺の自治体名だと思います。
羽生から一番近いところだと、大利根村(のちに大利根町)がありましたが、成立が1955年(昭和30年)なので時期的には微妙なところです。
大利根村(町)は羽生市からは東側に位置し、加須市を挟んで“隣の隣”でした。加須市のHP(旧大利根町の誕生|加須インターネット博物館)によると、昭和30年1月に「大利根村」として誕生し、昭和46年1月に「大利根町」となり、平成22年3月に合併し加須市となっています。
地元の方に聞いてみると、「大利根というと大利根町を指す」と話される方もいらっしゃいます。また、不思議なことに国道122号から県道60号を栗橋方面に入る交差点には行先として「大利根」という表示が最新の標識にも記載されていて、地域としては現在でもしっかりと認識されていることになっています。
それにしても現在加須市に属するその地域の名前を羽生市の砂利線の名前に冠することは若干不自然な印象です。
但し、羽生市内には「大利根」を冠する名前を持つ企業も複数存在しているので、利根川のほとりに位置し、どうしても利根川という大河の存在と関係が深い羽生市にとって「大いなる利根川」に由来して「大利根」を使用することはおかしなことではない、と言うことはできるのではないかと思います。
伊勢崎線の木崎駅(群馬県)に存在していた専用側線「大利根砂利線」

大利根砂利線が最初から企業の専用線だった場合は当然ですが、「大利根砂利」という名の企業が関与したことになります。つまり「専用線一覧表」の凡例に記載があるのですが、路線名は専用者(契約相手方)の名前を冠するのが普通なのです。
前述の鉄道ファン7月号の前月、2004年6月号に掲載された「東武鉄道 貨物列車ものがたり(2)/花上嘉成」はこれまた非常に貴重な資料です。昭和10年から東武伊勢崎線には業平橋駅(現在のとうきょうスカイツリー駅)と群馬県の木崎駅の間に「急行貨物」が運行され、その停車駅は杉戸駅(現在の東武動物公園)、羽生駅(上りは舘林駅に止まり羽生に止まらないものもあり)という構成で、しかも当時は砂利輸送列車としての役割が大きかったようです。そして羽生も重要な貨物駅だったと言えるのではないでしょうか。
その記事のP154に「木崎駅構内配線略図(昭和19年)」という大変ありがたい図の資料があります。ここに東武鉄道の貨物線であった「徳川河岸線」と共に、“砂利関連会社の専用線”として「大利根砂利線」の文字が刻まれているのです。転載はできないので、昭和19年に比較的近い昭和23年の航空写真に文字を落としてみました。

昭和26年、昭和28年、昭和32年の専用線一覧表の木崎駅の欄には、「大利根砂利会社」(※“株式会社”でなく“会社”となっているところに注意が必要)と掲載されています。
「大利根砂利会社」とは設立時は後述の「大利根砂利合資会社」であり、それが時期不明ですが「大利根砂利株式会社」なり、ある資料によると昭和20年代の後半に「大都工業」に売却されたようです。
木崎駅における専用線一覧表の推移を下記のようにまとめてみました。

尚、「専用側線」とは専用線の種別として作業キロが3㎢以内のものを指していますが、大利根砂利線を論じる中では出てくる専用線は全て専用側線となっています。本文中の「専用線」「専用側線」という言葉は同じものを指しています。
ここでちょっと注目していただきたいのは、急行貨物が運行され始めた「昭和10年」です。
この年は『大利根砂利線の”専用者”砂利業者の「東武興業株式会社」』で取り上げた、東武興業が東武川砂として設立した年と同じです。それではその昭和10年以前はどうだったのか、その時期に「大利根砂利」という名前の企業との関係はなかったか・・・。実は意外なところにヒントのようなものがありました。次項に書きます。
昭和22年のカスリーン台風の記録「埼玉縣水害誌」に記載された「大島戸一」氏


埼玉県 編『埼玉県水害誌 : 昭和二十二年九月』〔本編〕,埼玉県,1950. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2930209 ※埼玉県に利用許諾確認済
昭和22年のカスリーン台風では、利根川の決壊を含め多大な被害が記録されています。利根川における砂利採取にも大きな影響があったことが、「埼玉縣水害誌」の「第十四章 砂利採取事業関係被害」にまとめられており、“民営”の方に大変興味深い記載がありました。
-379x1024.png)
-349x1024.png)
「被害地名」の「北埼玉郡川俣村地先」は間違いなく大利根砂利線に関わる砂利採取地です。
「大里郡妻沼町地先」と「大里郡男沼村地先」に関しては仙石河岸線に関わり、「大里郡新会村地先」は前述の木崎駅に関わる砂利採取地です。
もうおわかりだと思いますが、“適用”欄に「東武興業株式会社」「大利根砂利株式会社」など書かれているところに、何故か大利根砂利線の北埼玉郡川俣村地先には「大島戸一」という個人名が書かれているのです。
またも大きな謎が出てきました(笑)
ところがこの大島戸一氏は非常に興味深い方で、後で詳しく取り上げたいと思いますが、当時の”群馬県多額納税者”とも言われた方で、昭和2年に「大利根砂利合資会社」の設立に関わり、昭和10年には「大利根砂利代行株式会社」の代表取締役となったりしているのです。
抜粋-968x1024.jpg)
抜粋-1024x646.jpg)
この方が旧川俣駅が廃止された後、その“旧”本線を専用線に転用する際に何かしらの関与があり、そのことから「大利根砂利」という名前が使用される元になった可能性があるのではないか、当会としてはその推測も捨てきれないと思っております。
なぜ「東武鉄道六十五年史」には掲載されなかったのに、「東武鉄道百年史」に掲載されたのか
冒頭の東武鉄道お客様センターの「100年史以外に確認できる資料がございません」という回答に象徴されるように、「大利根砂利線」がそれまでの資料(例えば「東武鉄道六十五年史」など)に記載されてこなかったのか。
謎の原因は、昭和30年代の利根川引堤工事の影響で新橋梁が架設され、その際に砂利線の位置が当初の“旧川俣駅”時代の軌道の位置から東側の新たな築堤脇に敷設替えがあったことと関わるのではないか、と当会は考えています。
(大利根砂利線(東武伊勢崎線 羽生駅~利根川橋梁間)ステップ図Ver.1 も参考にどうぞ)
繰り返しになってしまいますが、本来専用側線は専用する企業が負担して線路を敷設することになっていますが、当初の大利根砂利線は利根川橋梁架設までの仮駅とはいえ、旧川俣駅までは“本線”だったことになります。
さて、ここからは全くの妄想の話をしますが・・・。鉄道会社により敷設された既設の線路を、専用側線に転用するケースがまれとはいえあり、「大利根砂利線」はそれに該当していた。つまり当初の位置ではあえて名前を付ける必要がなく、路線名があいまいなままでいた路線が、引提工事に伴う敷設替えによってその費用の負担を誰がするのか、何となくの推測ですが、そこも問題になったりしたことがあったのではないでしょうか。
本来専用線とは、使用する企業が自ら費用を負担して敷設するものですが、東武鉄道が開通当時、ましてややっと利根川橋梁ができて当初の営業的に重要だった足利市等の機業地と東京方面を結び輸送の利益を上げようというもくろみを達成しようとしていた時期でもあり、積極的に様々な企業と専用線の契約を進めていたとも考えられる時期で、この大利根砂利線も東武鉄道側が活用しようと各方面に転用を働きかけたと想像するのは飛躍しすぎでしょうか。そのような経緯を前提と考えれば、引提工事に伴う敷設替えも東武鉄道が負担するということになり、社内の予算確保の過程で「路線名どうする?」ということを明確にする必要が生じたのではないでしょうか。そこで大島戸一氏が(これは本当に妄想なんでご注意ください)もし専用側線転用の動きの過程に関わっていたとしたら、さかのぼって「大利根砂利」という名称が出てきたとしてもおかしくないかも知れません。
更に言えば、このような経緯から名前を付けた段階で「開通日不明」などとなってしまったのではないかとも考えられます。
大島戸一氏と東武興業は関係があったのか
※ご注意:ここで記述される「東武興業」は現存する東武鉄道グループの同名の会社とは全く別の会社で既に存在しません。(大利根砂利線の”専用者”砂利業者の「東武興業株式会社」)
東武鉄道に関わる砂利会社の系譜は非常に複雑で、これもまた後で別な記事にして論じたいと思いますが、ほんの一部をまとめてみました。

東武興業という会社が複数存在したこともそうですが、「東武砂利」という会社も複数存在していたり、東武鉄道を巡る砂利業者の関係は非常に複雑です。東武興業(東武川砂)の設立時の代表取締役だった水谷庄次郎氏と、大島戸一氏は前年に同じ会社の役員だったことがわかります。つまり接点はあったんです。
また、同じ砂利業界の会社を同じ鉄道の沿線で重複する経営者によって複数設立することの意味はどうだったのか。ここでまた私の妄想が出てしまいますが(笑)、やはり地域(採取地)により様々な事情があったのではないでしょうか。
後にこれまた詳しく論じたいと思いますが、大利根砂利線を含めた専用側線で「第三者使用」として登場する「東武砂利協同組合」も興味深いです。
今後について
現段階では「営業路線か専用側線なのか」については、「どちらの可能性もある」という状況のままではありますが、今後も様々な角度からの考察を続けたいと思っております。
鉄道博物館や国会図書館でマイクロフィルムの鉄道公報関係をかなり時間をかけて見ましたが、やはり余程時間の余裕がない限り、資料探しには限界がありました。早く会社員を引退して研究に専念したい(泣)
鉄道公報等の資料のデジタル化は進んでいるとは思いますが、それらが使用させてもらえるようになるまでは、地元の図書館や現地取材等で情報を集めたいと思っております。
また、この記事の中に書きましたが、次回以降東武鉄道を巡る砂利業者の系譜や大島戸一氏を含めた関係者等についての記事を順次アップしていきたいと考えております。
尚、情報は常に受け付けておりますので、「お問い合わせ」フォームからお寄せください。
よろしくお願いいたします。